アリーの機音カフェ

趣味の機織りの様子や作品、国内外の旅行記やお食事、母の介護のお話など

ラムゼイハント症候群と癌・リンパ節への転移と医師の言葉

Allyです。

やっぱりか。。。

定期検診に訪れた際、担当教授から癌のリンパ節

への転移を告知されました。

 

医師の言葉の意味 

母が出て行った後の診察室で担当教授に言われた

ひとこと。

「長くはないから、安心していいよ」

 

この言葉の意味を、私はひとりで長い間考えるこ

とになります。とても重たい言葉でした。

 

私は何も言えず、黙礼し立ち去りました。

でも、その言葉を聞いた時には。。。

この医者、何言ってるの?

これから治療を開始するのに、治す気あるの?

治らないのに、抗がん剤治療をなぜ勧めるの?

と、不快な気分になったのは事実です。

 

ただ、その後の長く続いた別の大学病院への通院

生活の中で、気付いたことがありました。

その病院では、診察日には看護相談という名目で

診察前に看護師さんと話をする時間が設けられて

いました。看護師さんは、母の話を聞くより、私

の仕事のことや身体の心配してくれたり、母と同

居して面倒を見ていることを褒めてくれたり、い

つも私のことを気遣ってくれました。

母に対しても、娘さんが面倒を見てくれて幸せね

頑張らなくちゃね、といつも言ってくれました。

 

患者だけではなく、その患者を看るものに対して

のケアーというものを感じたのです。

 

担当教授は、ラムゼイハント症候群とマイクロサ

ージェリー手術、胃の全摘出手術、そして癌の転

移と、長い間大変だったね。でも母親の寿命も長

くはないと思うから、もう、そんなに頑張らなく

ても大丈夫、安心しなさい。

と、私を気遣い、私に対してだけに伝えたかった

言葉なのかもしれない。。。

何年か経った今では、そう思っています。 

 

f:id:ally-hataotocafe:20190512083038j:plain

母の塗り絵NO.10

化学療法の開始とその後

 

抗がん剤治療を拒んでいた母も、この告知には逆

らえず、結局はまた入院し、抗がん剤の治療を受

けることを決心しました。

検査後には、1クール目の投与が開始され1週間

後には退院しました。

次の抗がん剤治療までは、自宅での療養です。

 

私は仕事での海外出張へ出なくてはならず、いつ

も通り、弟と近くに住む友人に様子を見に来ても

らうように頼み、宅配の食事の手配をして、仕事

へ出かけました。

 

そして、1週間後に帰宅してみると。。。

母は瀕死の状態でした。体はやせ細り体重は30

キロ未満。抗がん剤治療は、長い闘病生活で体力

のなくなってしまっている母の身体には耐えられ

ないものだったのです。

そして我慢強い母は、私以外の人、自分の子供で

ある弟にさえ弱音を吐かず、私の帰宅をじっと待

って、耐えてしまっていたのです。

そのまま夜の病院に向かい、何とか入院させても

らえるように数時間も交渉し、腫瘍内科の担当医

に連絡を取ってもらい、やっと再入院。

そして、翌日からは抗がん剤を身体から排出する

治療が開始されました。

 

看取りに向けての話

数日後、お見舞い帰りの夜、腫瘍内科の医師に話

があると呼び出されました。

内容は。。。

母親にこれ以上の化学療法の治療はできないので

今後のお看取りのことを考えると、近くの病院へ

転院した方がいいでしょう、という話でした。

 

長くはないから、安心していいよ。

消化器外科の教授の言葉を思い出しました。

 

これ以上の治療ができないことは判っていました

し、お看取りという言葉にも、不思議と抵抗はあ

りませんでした。私も疲労困憊だったのです。

三鷹の病院まで、母と通院するにはタクシーでの

往復で1万円以上の距離、私が自宅からお見舞い

に通うにも、電車とバスで片道1時間はかかるこ

とを考えると、少し肩の荷が降りました。

 

そして、自宅近く(タクシーで5分の距離)にあ

る、慶応大学病院へ紹介状を書いて貰いました。

ラムゼイハント症候群の治療のために、今まで何

度も何度も病院を変わり、病院ジプシー状態にあ

りましたが、やっとそのジプシー生活にも終わり

を告げる病院へ、最後に辿り着いた瞬間でした。

 

でも、まだ戦いは終わっていません。

 

前回までのお話 

www.ally-hataotocafe.com

ラムゼイハント症候群とは 

www.ally-hataotocafe.com

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

今日の一杯はここまで。

Thank you

Ally